撮影:亀田正人
人類の終末期を描いたマーセル・セローの小説『極北』には、元文明人が文明の残りかすを拾い集めるようにしてなんとか命をつなぐ一方で、ツングースたちがたくましく大地とともに生きている姿が登場する。
ツングースとは、ウデヘや満州などユーラシア東部の少数民族で、ツングース語族の人々を指す。
小説で描かれるようにロシア極東地域の少数民族の中には、ソビエト崩壊後に定住化政策を蹴飛ばして、自ら遊牧や狩猟採取に戻ったタフな人々が多い。「生活水準を過去に戻すことはできない」などと、訳知り顔で、諦観的に物質文明を肯定する意見もあるが、極東の少数民族は、そもそもその諦観が物質文明に毒されていることを示す、生き証人というわけである。
そんなロシア極東のタフな生き証人といっしょに旅をしたことがある。ミーシャという名で、移動住居はテント、季節移動住居はヤランガ、ストーブ類は焚き火、食料は散弾銃(間接的に)だった。
ミーシャの刃物類はふたつ。一つは車の板バネから削り出したという小さく無骨なナイフ(取っ手にチューブが巻かれていた)。もう一つは、ロシア式のノコギリ。
小さなナイフとノコギリというセットは、私が日本の山旅で行き着いたスタイルと同じだった。ツンドラの大地で暮らす尊敬すべき野生児と刃物観が同じだったというのは嬉しかった。
徒歩旅行に持って行く刃物の選択というのは、そのまま、その旅のスタイルを表している。登山用ストーブを持参し、乾燥食品を食べるなら刃物の出番はない。まったくないといっていい。
登山用のストーブを持ち歩かず、焚き火ですべてを賄うならノコギリがあった方がいい。条件が良ければ焚き火を熾こすのにノコギリなどはいらないが、条件が悪くなる(雨、雪)ほどに、ノコギリの存在感は増していく。
撮影:亀田正人
撮影:亀田正人
撮影:亀田正人
乾燥食品ではなく、山で調達した食材を食べるなら、小さなナイフは必携だ。とくに魚をおいしくおろすためには、包丁とまな板(ベニヤ板)がほしい。
ケモノを解体するなら、包丁より刃がカーブしているナイフがよい。
そういうわけで私の定番は、夏は包丁(木屋、No.160の150㍉)とノコギリ、冬はモーラナイフ(2000)とノコギリという組み合わせである。
撮影:亀田正人
ノコギリはシルキーのゴムボーイの300㍉を持って行くことが多い。春の山菜の季節には、根切り用の刃物も持参する。これは泥壁を登りながら片手で刃を出せるスパイダルコが使いやすい。
ナイフは見た目の迫力より、錆びにくいステンレス系の特殊合金で、よく切れ、研ぎやすく、使い勝手がいいものを選んでいる。モーラは安いという点も魅力的だ。値段を気にして使うのを躊躇したら道具は意味がない。
撮影:亀田正人
木屋の包丁はやや高価だが、イワナをストレスなくおろすには、このレベルの切れ味と刃持ちがほしい。
シルキーは「ノコギリといえばシルキー」というくらい有名だ。このノコの刃は高度な工業製品で、機械の精度が高すぎて自分で目立てすることは難しい。刃が落ちたら取り替えるというのは、あまり美しい道具とはいえない。
これは友人のスパイダルコ
撮影:亀田正人
刃物全般にいえることだが、刃物と砥石はセットである。研がなければ、どんなに高価な刃物もその能力を発揮できない。砥石は人工砥石で充分である。自宅で研いでおけば、山には釣りハリ用の砥石を持って行って調整する程度で、ずっと切れ味を保つことができる。
サバイバル登山における装備論をより深く知る
服部文祥『サバイバル登山入門』
服部文祥氏の装備論がよりわかる書籍。彼の実行する「サバイバル登山」はできるだけ自分の力で山に登ろうという試みであるから、自分で作り出せないものを山に持っていき使うのはフェアとは言えず「ズルい」というのが基本スタンスにある。
持っていく装備に対して条件を課すことで登山を難しくしているように映るかもしれない。足枷を増やすのではなく、装備をそぎ落とし、自分を道具や文明から解放することで、本来の姿に戻っている(本来の困難と向き合っている)という考え方の方向性がカギである。〔サバイバル登山入門 42ページ〕
このような考え方で服部文祥氏が普段持っていく装備を全てチェックでき、それぞれの装備に丁寧な解説があるから登山初心者から、上級者まで新しい発見を見出せる書籍である。書籍そのものは、サバイバル登山の全貌を知る事ができる内容の濃いものである。