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東海道五十三次ランニング『日坂宿から金谷宿へ』

東海道五十三次ランニング『日坂宿から金谷宿へ』

東海道五十三次は東海道にある53の宿場を指す。風光明媚なスポット、名所旧跡を楽しめる場所も多く、昔と変わらない景色に巡り合うことで、その昔の人々の苦労を知る手掛かりにもなる。今回は東海道五十三次の25番目の宿場である日坂宿から、24番目の宿場である金谷宿を結ぶ旧街道ランニングを楽しみにでかけた。

東海道五十三次 小夜の中山

日坂宿から金谷宿までの道のりには東海道の三大難所の一つとされる峠「小夜の中山」がある。峠と言われるだけあって、ちょっとした山に登るような急な勾配があり、登りきった後はまるで縦走をしているかのように、左右共に景色に恵まれた道を走っていく。

東海道五十三次 日坂宿
東海道五十三次 日坂宿
東海道五十三次 日坂宿

スタート地点は日坂宿。町の酒屋に、広場に、家に立札があり「自身番」「本陣-扇屋」「蛭子屋」などなど目にとまる。昔この場所には旅篭屋があり、自身番といって町内警備を担う番所があったということがわかる。ここ日坂宿までは東京であれば新幹線で掛川下車。そこから東山線のバスでおおよそ30分で到着する。

東海道五十三次 日坂宿

日坂宿は、古くは入坂、西坂、新坂とも書かれていたことが文献でもわかる。鎌倉時代の文献に初めて「日坂」という名が登場したそうだ。1843年の記録には、家数168軒、人口750人とあって、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠屋33軒。宿場の西口から東口までの距離は約700mと東海道53の宿場の中で3番目に小さな宿場町。大井川の川止め(江戸時代、河川が増水した時、川越を禁じたこと)や、大名の参勤交代などで昔は賑わっていたということ。町並みの形態は今と同様で、当時の風情を今に伝えている。

東海道五十三次ランニング開始

日坂宿に沿うように現在の東海道があり1号線バイパスがその上を走っている。旧街道はこの東海道から山の中に向かっている。

東海道五十三次 日坂宿

日坂宿をスタートすると程なく「弘法井戸」というスポットに出くわす。弘法大使所以のこの井戸は、現在残念ながら水は枯れている。旅に疲れた人たちがこの場所で一服していたのだろうか?はたまた日坂宿に住む人々の生活用水として使われていたのか?

東海道五十三次 小夜の中山

スマホの地図を頼りに旧東海道を探していると、「え?ここ登るの?」という程の、急な勾配のある道に出くわす。そうここが旧東海道の入口。

東海道五十三次 日坂宿

少し登ると安藤広重作の日坂宿の浮世絵版画の看板がある。江戸時代末期になると、諸国への街道が整備され、物見遊山の旅が盛んに行われたそうだ。すると庶民の関心がそれまでの享楽の場から戸外へ移り、それに伴い風景画が多く描かれるようになったそうで、この浮世絵もその頃に描かれたもの。

東海道五十三次 日坂宿

この急坂を数分登ると既にバイパスを上から眺める場所に。

東海道五十三次 小夜の中山

更に坂は続き、上から凄い勢いで走り抜ける野球少年とすれ違う。

東海道五十三次 小夜の中山

道はまっすぐと「小夜の中山」へと伸びている。

東海道五十三次 石碑

途中、街道の片隅に芭蕉の俳句が掘られた石碑を見る。
「馬に寝て残夢月遠し茶のけぶり」
夜通し馬に乗って旅を続けた芭蕉。小夜の中山宿に着いて「茶のけぶり」で、ふと我にかえる。

東海道五十三次 茶畑

茶畑と空のコントラストと、涼しい風がそよぐ旧街道。

小夜の中山に到着

東海道五十三次 小夜の中山

日坂宿から約3キロ。キツイ勾配を登り、茶畑が美しい旧街道を走り続けると、小夜の中山に到着する。わきには峠の茶屋「扇屋」があり、おみやげとして有名な子育飴が売っている。

東海道五十三次 小夜の中山
東海道五十三次 小夜の中山

直ぐ隣には久延寺があり、中には静岡県の遠州地方に伝わる七つの不思議な物語『遠州七不思議』の1つ夜泣き石が供養塔として置かれている。

東海道五十三次 小夜の中山

小夜の中山夜泣石の伝説について、案内板には以下のように書かれている。

”その昔、小夜の中山に住むお石という女が、菊川の里へ働きに行っての帰り中山の丸石の松の根元でお腹が痛くなり、苦しんでいる所へ、轟業右衛門と云う者が通りかかり介抱していたが、お石が金を持っていることを知り殺して金を奪い逃げ去った。
その時お石は懐妊していたので傷口より子どもが生まれ、お石の魂魄がそばにあった丸石にのりうつり、夜毎に泣いた。里人はおそれ、誰と言うとはなく、その石 を「夜泣石」と言った。
傷口から生まれた子どもは音八と名付けられ、久延寺の和尚に飴で育てられ立派な若者となり大和の国の刀研師の弟子となった。
そこへ轟業右衛門が刃研にきたおり刃こぼれがあるので聞いたところ、「去る十数年前小夜の中山の丸石の附近で妊婦を切り捨てた時に石にあたったのだ」と言ったので、母の仇とわかり名乗りをあげ、恨みをはらしたということである。
その後弘法大師 がこの話を聞き、お石に同情し石に仏号をきざみ、立ち去ったと言う。
文化元年滝沢馬琴 の「石言遺響」より”

東海道五十三次 小夜の中山

これを読むと、隣の茶屋で子育飴なるものが売られているのも納得がいく。

東海道五十三次 小夜の中山

「東街便覧図略」という、当時の庶民風俗が生き生きと描かれた名所図会がある。江戸時代中期以降の旅行ブーム最中でも比較的早い時期に生まれたもので、その図会の中に小夜の中山を描いたものがあるようだ。見ると今とほとんど変わっていない景色が描かれている。

東海道五十三次 小夜の中山

この写真から車とコンクリートと電線を取り除けば江戸中期にワープするだろうか?そんな景色だ。

東海道五十三次 菊川宿へ

小夜の中山を後に、次は菊川へと進む。風光明媚なスポットがこの後続々と目の前に現れる。

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