01 | プロローグ
2泊3日の山旅から1ヶ月がたった。
小さい頃から山にたくさん連れていかれていた私だけど、山の中で2泊した記憶は、中学1年生の時の白馬岳のみ。これは私の中で家族5人の最大のイベントとして鮮明に記憶に残っている。
それは山に2泊したからなのか、それともハプニングで旅を締め括っていたからなのか。今回の旅が終わる時、同行してくれていた山旅旅の柳原さんが「人間は生存本能で、辛い経験の方が強く残るものなんだよね。だから楽しい思い出っていうのは案外思い出せないもので、大変だったとか辛かったとかいうのばっかり覚えているもんなんだよね。今回の旅は、きっと忘れてしまうんじゃないかな。」と言っていた。それだけ、この3日間が私たちにとって清々しく、気持ちの良い旅だったのだ。楽しかった旅の記憶を失いたくなくて、私はこうして文章と映像で記録を残している。
3日間山にいたらどうなってしまうんだろう、というのは入山前から思っていたことだが、案外山から降りたらすぐに日常に戻され、そのまま溶けていった。3日間山で汲んだ水だけを飲み続け、その水で作った料理を食べて、このまま細胞が生まれ変わる周期と言われる3ヶ月間山に居続けたら、私ごと山の一部になるんじゃないかと思った。しかしたった3日間でそのようなことは起こらないらしく、下山後のコンビニではあっけなくいつもの通りのポテチを選び、食べてみたらいつも通りの美味しさだった。
3連休の3日間で山に籠っていたわけなので、下界の私は休日を過ごしていない状態で月曜日を迎えることになる。週初めの火曜日からとても忙しく、朝から夜まで会議とタスクとアポを繰り返しているうちに、先週の金曜日と地続きの平日を過ごしている気持ちになった。つまり、山に行く前の私の状態ということだ。
なんだか夢だったんじゃないかと思うようなあの3日間を、1ヶ月経った今思い出そうとして記憶を叩いたら何が出てくるのか、時間が経っても私の中に残る思いが、1つある。
02 | 父の便り
今回はヤナさんのお友達2人も一緒の総勢5名での登山。まあ、元々彼らが3人で行く予定だったところに、私らがお願いして便乗している形なのだけど。ほぼ初めましてなメンバーと、山での3日間。今日から私たちは、飯豊山を登る。
朝日を浴びながら登っていた。朝が来たら、今日が素晴らしい晴れなんだってことがよくわかるようになっていき、どんどんご機嫌になっていった頃だった。
お父さんからラインが来ていたことに気がついた。
03 | 親子の関係
私と、私のお父さんの関係は、少し特殊だ。私は58歳になるお父さんと、少し気まずい。
私が生まれる時、父は船乗りだった。客船に乗っていたらしい。長女である私が生まれた時は海の上にいて、初対面したのは2ヶ月後だったそうだ。写真で見た、初対面の時の嬉しそうな父の表情、いつでも頭の引き出しの中で、埃を被らず引き出せる。
父の仕事は特殊で、数ヶ月海に出っ放し、そして休みは月単位でまとめて取る。父と母は、登山が趣味だった。記憶もないほどの幼少期なので本当に覚えていないのだが、父と母と、母に背負われた私の3人で、いろんな山に登った写真が、家にはたくさんある。私を背負うためのキャリーには、共に登った山の山バッチがたくさんついていた。ULなんて何にもない時代で、私はいつでもごわごわとしたフリースを着させられていたし、いつでも百均で買えるようなバンダナを、3人揃って頭に巻いていた。
3歳の時妹が生まれてからは、背負われるのは妹の役目になったので、私は歩く羽目になっていたはずだ。覚えてないけど、そういう写真をたくさん見た。
みんなで山に行けることが幸せとも思ってなかった。山には連れて行かれるのが当たり前だったし、意識しなくても、いつでも自然が近くにあった。
いつだったか、父が転職した。父は、船乗りからホテルマンになった。今、彼は地元秩父の山の中腹にある、「いこいの村ヘリテイジ美の山」というホテルで支配人をやっている。そのタイミングはいつだったのかわからないが、家族で山には行けなくなった。休みがないんだ。ホテルを守るための泊まりが増えて、父は家にあまり帰って来られなくなった。
私はここで父の仕事について語れるほど父の仕事について知らないが、自我が芽生えてから、お父さんと一緒に何かをした記憶というのがほとんどない。家族で旅行に行くとしても、母と兄弟3人での旅行だった気がする。仲が悪かったわけではないんだが、圧倒的に会う機会と、交わす会話が少なすぎた。
母が「父さんはあんたのこと好きだよ」と言うので、父はどうやら私のことが好きらしいということはなんとなく知っていた。でも正月やお盆休み、本来家族で過ごす大きな行事に父が不参加であることが常習化し、「父は家にいないもの」という当たり前ができた。寂しくないのかなぁ、とぼんやり思うこともあったが、仮に父が寂しかったとしても私には何もできない。いわゆる思春期の娘と父親の「お父さん嫌い!顔も見たくない!洗濯物分けて!」となるほど、そもそも顔を見てないし、洗濯物を一緒に洗われていない。私はこれといった反抗期を父に向けることなく、大人になった。
母がとても大変そうだったことは、今になってよくわかる。3つずつ離れた兄弟のそれぞれの習い事の送り迎え、加えてフルタイムの自分の仕事、家事まで、全てワンオペで回していた。今の私は自分の世話だけでいっぱいいっぱいなので、信じがたいマルチタスクだ。
当時のことを母に聞くと「自分でもどうやっていたか覚えてない」と言う。強いんだ私のお母さんは。
父は、その場にいなかった。私の記憶の中の親との会話は、いつだってお母さんだ。困った時に支えてくれたのは、いつでも母だった。父のことを嫌うほどの接点も与えられないまま、私は母に育てられた。
そして今私は、母が私を産んだ歳になった。
父のこと、よくわかってなかったんだ。
何を考えていて、何をモチベーションに仕事をしているのか。私が大人になってから、何度か食事をしたことはある。私が転職するか悩んでいると知った時、わざわざ会いにきてくれたこともあった。まあ、なんとなく愛のようなものを感じたけど、どう受け止めたらいいかはわからなかった。
母は今、登山の趣味を再開し、私以上に山三昧の日々を送っている。子育てを終えた第二の人生を最高に楽しんでいるようだ。一方父は、今でもホテルの支配人をしている。趣味だった登山はしなくなっているはずだ。太ったりしてはないから登れるんじゃないかと思うし、山のホテルをやっているのだから、やっぱり山は好きなはずだけど、出かけたりしている様子はないな。私が登山のYouTubeをやっていると知っているけど、登山に誘われたこともない。
父は今、何を考えているんだろう。
とはいえ、父のホテルは素敵なんだ。もう何十年も父が守ってきた大事な大事な空間が、秩父の山の中腹にあるんだ。お客さんとしても、お手伝いとしても何度も行ったことがあるけれど、隅々まで父の影を感じるあのホテル。父は、ホテルと一体になったのかなと思う。
04 | 父と飯豊山
話は戻る。そんな父さんからラインが届いたのだ。本文は特になく、山から見えた雲海の写真が送られてきていた。こんな連絡が来たのは初めてだった。なんで今日なんだろう。
たまたま電波が入って気づいたから「飯豊山に来てるよ」と返して、何通かやりとりしていたら驚くことがあった。飯豊山は、父が一番好きな、思い出の山なんだそうだ。
父から来たライン(↓下山後にやりとりした)
※「夏生」は私の本名です。
このコースは飯豊の主脈の東側から上がって主脈を南下して飯豊本山の南から東に下る周遊コースかしら?
大嵓尾根って、確か主脈から見るとブナの森が広がっていたのが見えた記憶あり。
俺が行ったのは確か99年あたり、なっちゃんが5歳頃、だから34歳頃、夏生と大差ないね。
飯豊山脈、南側の弥平四郎口から北上して4泊5日単独行で杁差岳から関川村へ下りた。
1日目の登り始め30分でいきなり熊が前を通り過ぎ、帰ろうか迷ったが、徳沢から登山口までTAXI10,000円かけてきたので我慢して通った。
お陰で素晴らしい世界が見れた。5日目の杁差から下山中にも熊に遭って、東北はとても月の輪熊が多い。
色々な経験をして、東北の魅力を再確認した良い山行でした。飯豊は一番好きな山かもしれない。
8月のど真ん中なのに、5日間で出会った人は10人もいなかった、それだけ山深い所で、体力がないと行けない場所です。
二人が飯豊を選んだのは、どういうわけかわからないけど、非常に良い選択です、東北の山を極めて下さい。
記録を後で拝見しますので、できたら知らせて下さい。ジュンによろしく。
05 | 父の影を追う
私は山に登りながら、なんでお父さんと一緒に登っていないんだろうな、と思った。
今回は、ちょっとお父さんみたいな雰囲気の山の先輩たちと登っていた。1日目の門内小屋について、柳原さんと一緒に坂に腰掛けて背に夕陽を浴びている時、「なんで隣にいるのがお父さんじゃないんだろう」と思った。
柳原さんのお友達が、ポップコーンを作ってくれた。「山でポップコーンが作れるか、実験するんだ」と言って、みんなで弾けるポップコーンを見てきゃいきゃいした。柳原さんが作ってくれたおからパウダー入りのクリーム煮が粉っぽくて「粉っぽいけどまあ美味しいっちゃ美味しいね」とみんなで笑いながら食べた。
寝不足だったので夕陽が沈むまで待てなくて、沈みかけの夕陽を見ながら寝たけど、朝起きたら沈んだのと反対側から朝が来ていて、本当に太陽は東から昇って西へ沈むんだ、と思った。
避難小屋って、本当に遭難した人が泊まるところなんだと思っていたけど、こうやって普通に登山に来た人も泊まっていいんだということを知った。
飯豊山の山の中は、すごくすごく深く山に囲まれていて、市街地が遠くに見えた。1人で門内小屋の奥のピークに登ってみたら、音が消えて、山と私だけの世界があった。市街地は見えたけど、すごく遠くだった。反対側のすごく遠くには、海が見えた。ここまで歩いてきた道と、これから歩く道に挟まれて、風が私の中を通り過ぎていった。
お父さんも、この道を歩いたんだね。私と同じくらいの歳の頃に。
その時には、もうすでにお父さんになっていたんだね。そしたら少し価値観は違うのかな。でも、同じことを思ったはずだ。「これからも一生、山に登り続けたい」って。
なんで私、家族とここにいないのかな。
いや、一緒に来てくれてる、ジュンとか柳原さんが物足りないとか決してそういうことではなくて。ただただその場で、お父さんのことを思い出してたんだ。
この3連休は2日目も3日目も奇跡的な晴れで、こうやって山に泊まりながら歩くと、こんなにも全身が山で包まれる思いができるんだって、感動した。
あんまりにも気持ちがいいと、自分の心の重心みたいなものが自分から離れて、もうどこにあるのかわからないみたいな気持ちになるね。あの山間をふわふわ飛んでいるのが、私なんじゃないかって、思う。
お父さんも、そう思ったのかな。
06 | 親子の会話
なんでこのタイミングで連絡してきたのか。本当に不思議で、私にラインを送った父の、スマホの向こう側の表情が見えない。
そして私は下山して、父を登山に誘おう、と思った。単独登山が好きなようだから、一緒に行くの嫌がるかもしれないなー、なんて思いながら。
と思ってたら「父さんも夏生といつか山に行きたいなあ…」ときた。まさかの先に言われた。父さん、いつかっていつよ。私はいつでも行けるよ。30代の時のあなたと違って、まだ子供もいないし、結婚もしてないからね。
本当に行こうよ!と言ったものの、「いつか行きたいな」と言われ残し、父とのラインは終わったが、このいつかは本当に来るいつかなんじゃないかと思う。思えるくらい、私は大人になったし、大事なものを見誤らないように育てられた。
私山ではポンコツだけど、いろんな人のおかげさまで超いい子に育ってるから、その1日くらいはお父さんを立てるとか、まあそういうサービスしてあげてもいいよ。いろんなことを多くは語らずに、同じ時間に同じ景色を見ようよ。体力落ちてても笑わないし、なんなら水も持ってあげられるよ。
秩父の山でもいいしさ。遠出しなくてもいいし。兄弟3人で行くのは無理かもだけど、弟は来てくれるって言ってたよ。父さんが何考えてるのか多分一生わからないままだけど、また同じ景色が見られたら、それでもいいって思えそうだよ。