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山のモノ Wear / Gears

山のコト Experiences

焚火の遠景
2025.01.24
タープ

タープ

はじめに

山登りの道具についてコラムを書かせていただくことになった。

私に登山についてなにかを語る資格があるかどうか甚だ疑問ではあるのだが、それなりに幾多の夜を山で過ごしてきたのは確かではある。そこには、人とは異なる山との関わり方もあったように思う。

山に登るための道具の「機能」については「山旅旅」で充分に語られている。メーカーへの忖度のない客観的で率直な感想が丁寧に語られる稀有な山岳メディアではなかろうかと、勝手ながら思っている。

一方で私の綴るものは、実に主観的な個人的な体験に過ぎない。もしそこになんらかの意義があるとすれば、山に対する寛容度のようなものかもしれない。

山登りの宿命として、目的に縛られてしまう、ということがある。私は漂うように山を彷徨し、そこに住む生き物や岩石や雪のあり方に驚嘆し納得する一人の静かな観客でありたいと思っている。それは過去に私が辿ってきた山の頂きが、苦難と崇高さに欠けるものだからだと後ろ指を指されるのならば、私はそれを甘んじて受けるほかない。

山はいつも具体的でありながら、私たちの心に映るときには常に抽象的ななにかになる。その抽象的ななにかを凝視することが山登りの楽しみではないかと近頃は思っている。

タープ

五月から十月までは、テントではなくタープの下で眠ることが多い。テントで泊まるということには、外部からの防御の姿勢が鮮明だが、タープにはおおらかな寛容の精神が表れている。

私は適度によく張られたタープの下で、あぐらをかいて焚き火を眺めることを好む。焚き火から漂う煙の背景に、山深い源流の穏やかに屈曲した流れがあればそれ以上望むことはない。

しっとりと小雨が降りしきるのであれば、むしろこれほど粋なことはないと感じる。そのときは願わくば焚き火の火を育てるために片手に団扇(うちわ)がほしい。

溪の光が力を失うその一時間ほど前には、良い具合に長さを切り揃えた薪を、手元に一山くらい集めて積んでおきたい。そうしてある瞬間に風向きが変わるのを、肌ではなく煙の動きで知るのである。

複雑な周囲の地形と川の蛇行により、夕暮れとともに河原の地温が下がる順序が異なるからなのだろうか、それまで上流から下流に穏やかに流れていた風が不意に、そして誰に気づかれることもなく、その方向を変えるのである。

そしてときを同じくして、鳥の声がなくなったかと思うと、木陰で陸生の昆虫が鳴き始める。

藪蚊がひっそりと背後の森から浮かんでくる。

下地を均すために動かした石の跡から、驚いたハサミムシや節足動物たちがわたの膝の上に乗り上げてくる。晩夏の陽射しに飽いた虫たちが、静かに息を吹き返す時間が始まる。この時に誰かが尖った声を出して、虫たちを排斥するような態度でいるとしたら、彼(彼女)は森が編み出したこの深淵な曼荼羅のような地上の細密画の意味を、永遠に理解することはできないだろう。

羽化したばかりの水生昆虫が焚き火の前に集まる。水生昆虫の中には成虫になってなお食欲を持つものはほとんどおらず、彼らの意思は子孫を残すことそれのみに向けられる。

夜の光などが絶えてなかったこの場所で、彼らが炎を見ることは、今日私がここに来なければ一生無かったはずである。そのことを申し訳なく思いながら、彼らを火から遠ざけた方に放す。

私は自分の無意識が虫を生かそうとするほどに穏やかな心持ちにあることを覚え、いったいこの心持ちをいつの瞬間に再び無くすのか訝しくなる。

こうして夜が深まり、風が再びその向きを変え、そのたびに炎が熾ったり弱ったりする。新鮮な酸素が供給される風上側で熾が昂ぶる。それはときに煙になって私たちを襲う。

私たちの心は水の音と炎の熱で緩められ、ほぐされ、煙が涙腺をやさしく押す。そうしてもっと奥深いところの腹の中を、隣に座る仲間たちと共有したいと思うようになるが、それもこのシーンには蛇足だろうと思い直す。

薪に針葉樹が混ざっていたのだろうか、時折爆ぜた熾が火の粉になってタープに当たる。

小さな穴がタープに空く。

焚き火に飽きてだらしなく肩肘をついた私たちは次第に浅い眠りに落ちる。

瞼の向こうに炎が揺れるのが見える。

誰かが寝る前に最後の薪をくべる気配を感じながら、枕元に集う虫達を軽く払って私は寝袋にくるまる。

タープの映す空間に、炎の影が立体的に揺れているのを感じる。背後にある漆黒の闇に生命の横溢を感じながら私たちは眠る。私の頭の下で木の根が伸び、虫たちが落ち葉を分解する。

川は絶えることもなく流れ続けている。

朝がタープの前に音もなく降りて来ていることを皆に知らせるのは、たいがいは明るさではなく誰かが小枝を折る音である。流れの中にぼんやりと浮かび上がるように、その誰かがわずかに残った昨夜の熾をうちわで煽いでいる気配がする。

シュラフから出した鼻のあたりにしばしの間、新しい煙の匂いが漂う。そうして私は姿勢を変えることもせず、彼の朝の動作の音をじっと聞いている。

米を研ぐ音、乾いた小枝を拾う音。寝てるものを起こすまいと、音を立てぬよう鍋を火にかけているのがわかる。谷底の朝は遅い、まだ私は起きない。目を開けずに、枕元の夜露の濡れ具合、鳥達の囀りの様子で今朝の天気を感じてみる。

耳から入るこの景色を、いったい私に続く先祖達は何世代に渡って、布団の中で聞き続けたことだろうか。あるときは板の間に敷いた布団の中で、あるときは土間に並べた粗末な筵の中で。

この音を、匂いを、私ではなく私の身体が、長きに渡って知っていたのを感じる。記憶は世代を越えて引き継がれるかもしれないことを、私は否定する術を持たない。

米がどうやら炊けたような僅かに焦げた匂いがする。ようやく私は覚悟を決めて起き上がり、シュラフのまま体育座りになって起きたばかりの若い炎を見つめる。若い仲間が米の炊け具合をうかがっている。ブナの森から漏れた真っ直ぐな光がタープの床の隅に差しはじめた。その低く美しい光の軌道が、流れの上の朝靄を貫いているのがよく見える。その朝靄に焚き火の煙が混ざって絵の具のように溶ける。

「...晴れて、るのか」

私は誰に言うでもなくつぶやく。

「ご飯、ちょうど炊けました」

「すまん」

私はこれ以上に幸福な、平穏な山の朝の風景を、いまだ知らずにいる。目の前の光景が、一片の絵画なのではないかと疑わしくなる。

そうして河原に出て寝ぼけた顔を洗い、たなびく煙に包まれたタープを見て、また山を歩き続けてみようという、小さくもたしかな希望に満ちるのである。

タープの解説

タープを張るには自立した樹木が周囲にあることが前提になる。それらがない河原などの場合はなんらかの柱を建てる必要がある。

当然風に弱いため、森林限界より高い場所に張ることはまずない。タープの中心にはロープを緊張させて梁とすれば水切れがよくなる。布地の面積が大きいほど有利なようにも思えるがこれは逆で、大きいほど雨の時に水が溜まりやすい。

背丈より高い位置に張ると頭上を風が通って不安になるので、胸くらいの高さに張るのがよいようだ。雨が強くなれば軒を下げて泥跳ねをやり過ごす。張りを保つために細引を付ける引き口が、数多くついているものが良いタープだと言える。

私はアライテントのLサイズを使っている。アライテントのすべての製品には、洗練の視線ではなく質実の力が宿っている。

マニュアルの雰囲気ではない、人が素手でこしらえたらしいその縫い目の確かさに目を見張ってほしい。

タープの下側は一晩で焚火のヤニで染めつけたようになるが、たまに風呂の残り湯につけて石鹸でこすればよい。

眠りを妨げるほどの藪蚊に襲われるときは、タープの下にアウトドア用の蚊帳を吊ると快適になる。

焚き火面は火の粉による焦げを避けるために柱を立てて軒を高くしておくのが良いだろう。

テントの中のようにものを整頓して置く必要がない。雨が降らぬに越したことはないが、雨の中、タープの下で焚き火をつつきながら空を眺めるのは、決して悪い時間ではない。

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