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山のモノ Wear / Gears

山のコト Experiences

焚火の遠景
2026.07.01
約束のない山

約束のない山

「すみません、どうしても家で子供の世話をしなきゃならなくなりまして。。」

二泊三日の山行の前日夜に仲間から連絡が来た。

彼は数ヶ月前に父親になったばかりだったので、そのようなことは充分に想像できた。私は胸に暗雲がかかるのを感じつつ「大丈夫だよ、奥さんサポートしてあげてよ」と返した。

同様のキャンセルを私も過去にしたことがある。山に行くときにはその行き先について、あるいは天気について、道具について、最善を期するため出発前夜のギリギリまで悩みたい。

しかし山に行かないという選択をするときには、一切悩みたくないし、悩ませたくない。

幾度となく窮地を共にした大切な仲間には、山にある困難以外に心理的ななにかを与えることをしたくはなかった。さてどうするか。

私の明日からの三日間は突然、宙に放り出されたような形になった。

果たすべき義務は三日分くらいなら誰でも充分に抱えているのだろう。「やるべきこと」と「やりたいこと」はいつも私たちの中で拮抗しているが、どうやら後者を優先するあまりに、社会における何かを失いながら、私はここまできてしまったらしい。

私たちが今までに失ってきたものと得てきたもの、両者を天秤にかけるならば、どちらが重くなるのだろう。それが今こうして平衡を保っていたとするならば、あるいはそれしか道はなかったのかもしれない。

約束を失った私は深夜、ニ人用の食材や装備を詰め込んだ車のハッチバックに腰掛けて少し呆然としていた。目指していた渓流に、一人で挑むにはどう考えても荷が重い。額につけたヘッドライトが照らした先に暮れかけた夏を告げるコオロギが小さく跳ねて消えた。庭の敷石に静かに露が降りようとしている。

世界は「今」という平凡な脚本を流しながら、突如、それまで見せたこともなかった大胆な構図を私たちに見せることがある。その瞬間は当人にしかわからないタイミングで、あるいはロケーションで、または舞台装置で、しばしば不意に訪れる。

この瞬間はごく個人的な経験であり、その前後の文脈を正確に伝えるのが難しい、おそらくだれかに話すことには適していないのだろう。景色であるとも限らないし、例えば感覚であることもある。

釣れない釣りに一日を費やして竿を振り続け、意識さえも川に流されそうなっている夕刻。
無頓着に無作為に、しかし水の営為を妨げることなくふわりと流したドライフライに、突然の略奪のように襲いかかってきたイワナのこと。

横殴りの雨に長時間打たれ、肌着まで濡れつつあるのを感じながら、なおも斜め前からの向かい風に逆らって稜線を進まざるを得ない。

写真:洞将太

わずかに風が乾いて来たのが最初に手の平の感触で感じられた。誰かの歓声が遠くで聞こえる。深くかぶっていたフードのためにその方向がわからない。顔を上げてフードを脱ごうとしたとき、対面の雲が開け、目指している山が予想よりはるかに近くにあることを知った瞬間。

突然という冠詞がついたその心象や光景は、多くの場合、すぐに消え去ってしまう。なにかが起こるかもしれない予兆を感じながら、日常を崩すことを億劫がるあまりにそれを見逃してしまうことは、なんとしても避けなければならない。

その景色を見たいがために、山に行けぬ日をもって、慎重に山に行くための伏線の糸を張りめぐらしてきたのは自分自身であったはずではないか。

丁寧に生きていくということは、いつ展開するかわからないその脚本から目を離さずに観察し続けるということなのだろう。そして今日という日に山へ行くことなく、小さな赤ん坊があくびをしたりゲップしたりするのを見ていることは、間違いなく若い仲間にとって二度とは得られない景色であることを、私は既に知っているはずではないか。

2人用のタープの横に1人用のテントをそっと置いた。山で泊まるのに、タープには開放と寛ぎの風情があるが、テントには防御と回復への意志がある。今選ぶべきはテントのように思える。

写真:洞将太

一人だけの登山を積極的にしなくなってから久しく年月が経ってしまっていた。この1人用のテントを前に立てたのはいつだったろう。幸いなことに多くの仲間に恵まれたおかげで、決して易しくはなかった沢登りをここまで続けてこられた。

今もなお、私は一人だけで沢に行けるのだろうか。

仲間といることで自分を俯瞰していた私の理性は、抜き差しならない孤独の立場で山との対峙を迫られたとき、判断の正しさの度合いを誰にも問いかけすることなく、それらを正しく押し返せるだけの漲り(みなぎり)を、今も保っていられるだろうか。

私は深夜、中身を詰め替えた道具と共に静かに家を離れた。音もなくくぐり抜ける高速のゲートにも、強く踏み込んだアクセルペダルにも、約束という理由がない。

誰との約束もない山へ。
行き先は走りながら考えればいい。

山に行かなかったことの後悔に苛まれないために、淡々と義務を果たす日々も悪くはない。しかしそれは、山の孤独に震え、暗闇に虚無を見つめ、焚火に人の狂気を想い出すあの時間には勝ることはないだろう。

その時間は、深層はミルクのように澱みながら濁っている。しかし上澄みは、花崗岩の川床を滑る清流のように透徹に澄んでいる。

一人ならばその時間は、仲間と行く時よりもいくらか早くやってくることを、私は懐かしく思い出していた。車窓から眺める東の空に山の姿を示す藍色が、淡く浮かび上がる。水際に淀んでいた心が、静かに流れ始めたのを感じた。眠気も覚えぬままに、私は夜明け前のインターチェンジへと車を滑りこませた。

その舞台に私が立たなくとも、観客が誰一人居なくとも、山は変わらぬ演劇を流し続けている。それを一人で見届けて帰ってくればよい、誰に告げるのでもなく、ゆっくりと坂を歩いて。

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