地平線の先までトレイルは続く。

僕は足が竦み、恐れ慄いた

8月16日。山中で初めての朝を迎えた。白夜のせいでいささか寝不足気味の僕は、ウトウトしながらも街で調達した即席麺を茹で始めた。地図に目を通し、今日歩くルートを確認する。

「この河の近くにテントを張れば気持ちよさそうだ。」早速本日の寝床が決まった。

 

トレイルでは野生のトナカイが縦横無尽に駆け回っていた。トレイルでは野生のトナカイが縦横無尽に駆け回っていた。

よく晴れた1日。順調に地平線の先へ歩みを進めていく。「うわぁ!」いきなり目の前を大きな物体が横切った。その物体に続くようにさらに数体僕の前を横切っていく。

「なんだこいつら?」

それは野生のトナカイ達の群れだった。中には大きな角を持つものもいる。初めて見た姿に僕の鼓動は一気に加速し始めた。奴らはまだ僕の存在に気がついてはいない。僕はそっと息を潜め、レンズを彼らに向けた。1枚、2枚とその静謐な姿をカメラに収めていく。

突然、群れの1頭が僕の存在に気がついた。「お前は一体何者だ?」と言わんばかに澄んだ瞳でそいつは僕を睨みつける。僕は一気に硬直した。たとえ穏やかな性格の持ち主であるトナカイ達であっても僕はその、人間より大きな肉体を持った彼らに対して恐怖を感じ、恐れ慄いた。文明を離れたこの自然界では彼らの方が僕たちよりずっと強く逞しく、そして美しいのだ。

どれほどの時間、僕は彼らと見つめ合っただろう。「お前なんかに用はないのだ。」何もなかったかのように彼らは踵を返し森の中へと消えていった。

トレイルを歩いていると数多くのトナカイの群れに遭遇する。最初は彼らが怖かった。けれどもその巨大な身体が発する生命の気配は、この広大なウィルダネスに1人存在することに対する僕の不安な気持ちをいささか和ませてくれた。

本当の幸せを僕は知った

トレイル上にはこのように山小屋が点在している。トレイル上にはこのように山小屋が点在している。

だだっ広い荒野の中を黙々と歩いていると、遠くに何か建物らしきものが見えてきた。スウェーデン観光協会(STF)が運営する山小屋だ。夏季の間はスタッフが常駐している小屋もあり、行動食や燃料を販売している場合もある。Kungsledenのトレイル上にも多くの小屋があるが、ハイカーがほとんど歩かないセクションになると200km近く小屋が存在しない箇所もある。

 

彼女たち小屋のスタッフのおかげで僕たちは安心してトレイルを歩ける。彼女たち小屋のスタッフのおかげで僕たちは安心してトレイルを歩ける。

「ようこそラップランドへ! どこまで歩くつもりなの?」女性スタッフが僕に声をかけてくれた。「Kungsledenを歩いてkilpisjarvi まで歩くつもりです。」僕は言った。
「それはどこなの?」困り果てた顔で彼女は言う。それはそうだ。僕が目指す場所はここから500kmも離れた小さな街なのだから。すれ違うハイカーや小屋のスタッフに何度も同じ質問をされたが、そのほとんどが僕の目指す街の名前を知らなかった。

このSTFスタッフがいることで僕たちは安心して旅を続けることができる。そして彼らはラップランドを歩くハイカー達をいつも暖かく迎えてくれる。3週間程度の期間で交代し、夫婦で小屋に来るスタッフもいれば、1人で小屋に常駐するスタッフもいる。皆いつも笑顔だった。そして自然との共生を楽しんでいた。国土の約7割が自然地帯であるスウェーデン。人々は夏、限りある太陽との会話を愉しみ、冬は長く深淵な夜の静寂に耳を澄ます。

 

僕は本当に毎日幸せだった。僕は本当に毎日幸せだった。

「こんな誰もいない場所で1人、不便じゃないの?」ある日、僕は小屋の女性スタッフにそう尋ねた。彼女は言った。「不便だなんて思わないわ。水も豊富だし、私には太陽があるだけで十分よ。」その言葉に僕はハッとした。そうだ、その通りじゃないか。これ以上求めて何になるというのだ。思えばこれまで僕はずっと色々なモノをかき集めていた。様々なことが脳裏に浮かぶ。金はあればあるほど本当に豊かになるのか。欲しいと思って買い集めたシャツやコートだって一体、何着持っていれば気が済むのだ。目の前に出された食事だって自分に必要な分だけを食べればいいのではないか。

友達や知識だって多い方が良いなど勝手に決め付け、必死に集めている自分がいたのではないか。そうだ、所有する喜びなんてきっと大したものではない。求めない方がずっと身軽だ。こんなこと考えたこともなかった。彼らの姿を見て、僕は本当の豊かさを知った。大切なのは、自分にとって何が必要であるのか、選んで生きることだったのだ。

「足るを知る」真の幸せを彼らは知っていた。

いつだって火は身体と心を温めてくれた

火はいつだって僕の身体と心をそっと温めてくれた。火はいつだって僕の身体と心をそっと温めてくれた。

8月18日。歩き始めて4日目。僕は最初の街、Ammarnasに到着した。

昨日から降り続く雨のせいでブーツもソックスもびしょ濡れだ。早速街の小さなマーケットで食料と燃料を買い足す。ビールとおつまみも買った。(これから街に降りた日は必ずアルコール類を購入することが僕の必至となっていく。)これから次の街まで10日以上の日数が必要だ。ベルトと気を引き締め、もう一度重く軋んだバックパックを肩に載せた。僕はまた歩き始める。雨は夕方まで降り続いた。

 

この日僕は始めて焚き火をすることになる。街を抜けしばらく樹林帯を歩いていると雨風を凌げる小さな窪地があった。雨に長時間打たれ、疲労困憊していた僕は早めに今日の山行を切り上げることにした。テント設営を済まし夕食準備をしていると、目の前に黒く焼け焦げた跡があることに気がついた。

ラップランドは基本的にどこで焚き火をしたって構わない。そういえばトレイルを歩いていると石で囲まれた焚き火後を目にしていたことを思い出す。早速、僕は焚き火をしてみることにした。

ふと考えてみると、これまで僕は頑丈な焚き火台の上でしっかり乾いた枯れ木を用いて行う簡単な焚き火しかしてこなかった。雨で湿った木々の中から火が着きそうなものをかき集め、火を熾そうとしてみる。だが木々は一瞬細長い煙を吐き出すだけで火など全く着く気配はない。

木の組み方を変えてみたり、周りを大きな石で囲んでみたり、僕は考え付く限りのことを試してみた。だがちっとも着かない。「ちくしょう!」自分の無力さに腹が立つ。「どうしたらいいのだろう。」僕は途方に暮れてしまった。ここに来て、スイッチ1つで火が着く暮らしを悔やんだ。

ふと、黒く燻った焚き火痕に目を向けた。するとその周りには何やら木々の樹皮らしきものが散らばっていることに気がついた。辺りの木々に目を向けてみると、確かに群生するシラビソの樹皮が剥がされている。「もしかしてこの樹皮ってよく燃えるのでは?」僕はそれらを火種とし、火熾しをしてみることにした。

すると「パチパチパチ・・・。」と、組んだ小枝の隙間に小さな光が灯った。僕はそっとその光が消えないように、息をゆっくりと吹きかけていく。「ブワァ!」突然その光は大きな炎となり樹々全体を包んだ。「やった! やっと火がついた!」きっと、その火は十分な火力は持っていなかったと思う。けれども他のどんな火よりも確実に僕の身体と心を優しく温めてくれた。

誰も居ない森の中。孤独と不安が心を支配していた。だが目の前に火が灯るだけで僕は本当に安心した。火は何も身体を暖めてくれるだけではない。火には愛があることを僕は知った。パチパチという音がなんと心地よいのだろう。その日、僕はこれまでで最も深い眠りにつくことができた。

トレイルが湖に沈んでいた

地平線の先までトレイルは続く。地平線の先までトレイルは続く。

起きて、食べて、歩いて、寝る。シンプルな要素で形付けられた毎日にリズムが生まれてくる。非日常だった生活が日常へと変わっていった。

トレイルを進んでいくと突然大きな湖が現れた。そこには一艇のボートとライフジャケットが入った大きなボックス、その後ろには何やら説明書きが書かれた看板が立てられている。「なになに?」どうやらボートを自分で漕いで向こう岸に渡れと言うことらしい。

僕は重たいバックパックをボートの上に投げ入れ、両手にしっかりとオールを掴んで湖を進みだした。「おい、全然進まないじゃないか!」せいぜい公園の池をボートで漕いだほどの経験しかない僕は、風と波がある大きな湖の前では手も足も出なかった。漕いでも、漕いでも、数メートル進んでは数メートル後退しての繰り返し。「本当に向こう岸にたどり着けるのか?このまま永遠に回り続けるんじゃないの?」

 

トレイルが湖に沈んでいたボートで湖を漕いでいるとまるで時が止まったかのような感覚に陥った。

そんなことを思いながらもクルクル回り続けて数十分、ようやくボートの扱いに慣れてきた。そしてやっと、手慣れた人であればものの数分でたどり着く岸に、僕は1時間もかかって到着した。ようやく岸へとたどり着いた僕はそこでとんでもない事実に気付く。

「なんてこった!」今自分自身で漕いできたことによって向こう岸にはボートが1つもない。立て看板には少なくとも必ず両岸に一艇はボートがなければならないと記載してあった。つまり僕はここから今、漕いできたボートにもう一艇のボートを繋げ、先ほど来た湖を戻らなければならないのである。

「また同じ場所に戻るのかよ…。」途端に足が重くなる。「1時間もかけて到着したのに・・・。」ぐちぐち独り言を呟きながらも、僕は着いた岸に荷物をデポジットし、また湖を漕ぎ始めた。こうして1日が終わってしまった。

 

トレイルの先にこのような川が突然現れる。トレイルの先にこのような川が突然現れる。

トレイルにはいくつかボートでの渡渉が必要な箇所が存在していた。その度に僕はボートの有無に一喜一憂することになる。結局この旅で何度か渡渉3倍の時間を要することになった。

僕はあの夜を一生忘れない

初めてオーロラを見た。涙がぽろぽろと流れ落ちた。

8月27日。僕は一生忘れることの出来ない夜を経験することになる。「腹減ったー!」トレイルを歩き始めて2週間近くが経った。堪らず地面に敷き詰められるように生い茂った、真っ赤なブルーベリーを口に頬張る。甘酸っぱい酸味が口いっぱいに広がっていく。

この日、僕は2つ目の街、Kvikkjokk に到着した。この街にあるSTFにはレストランが併設されていた。空腹で倒れそうだった僕は重いバックパックを背負ったまま、そのレストランに飛び込み、特大ハンバーガーを注文した。「うまい!」久しぶりの食事らしい食事。間違いなく、今まで生きてきた中で一番美味いハンバーガーだった。でも食べ終わると食料や燃料を買い足し、すぐにトレイルに戻った。「なんだか落ち着かないなぁ。」身体は自然を求めていた。街にいると何だか居心地が悪い。非日常だった自然が、僕の居るべき日常と化していた。

川の側にテントを張り、火を熾す。白夜の名残りがある8月下旬、夜のとばりがやってきたのは23時を過ぎた頃だった。僕は珍しく眠れなかった。テントから顔を出し、燻った焚き火の木々に再度、火を灯す。誰もいない異国の森の中で、好きな場所にテントを張る。目の前には火が灯り、木々のさえずりが静かに耳の奥で反芻していた。これ以上の贅沢があるだろうか。いや、絶対ない。僕は幸せだった。本当の自由を僕は知ったのだ。

 

初めてオーロラを見た。涙がぽろぽろと流れ落ちた。初めてオーロラを見た。涙がぽろぽろと流れ落ちた。

突然遠くの夜空が不気味な色に滲んで見えた。最初は何かの見間違いかと思った。しかしその不気味な滲みは次第に大きく広がっていく。突然、その滲みが大きなうねりを描いて空一面を覆い尽くしていった。夢を見ているようだった。緑、黄、赤、紫・・・。何色とも表現しがたいオーロラが僕の頭上に降り注いでいた。

この旅で僕は2度、泣くことになる。この日、空を眺めながら僕はしんしんと泣いた。

旅は順調に進んでいた。今まで歩いてきた道が、己の血となり肉となっていく。身体は着実にやせ細っていたが、心は日々満たされていた。何もできないくせに、なんだってできるような気持ちになった。

「なんて僕は幸せなのだろう!」

毎日思った。この荒野に1人存在する幸せ。この場所には何もないけれど全てがあった。その想いと共に、僕は「ありがとう。」と誰に対してでもなくふと思うようになっていった。ある日、そう心から思える出来事が起きる。そして僕は2度目の涙を流すことになった。

 

北欧ロングトレイル『ラップランド』への旅を実現に

プロローグ「挫折、葛藤、夢の発掘」
>旅の道中 〜前半〜「感動の出会い」